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May, 2013

“ 併置することと連続すること “  比較事例 検証および論考

併置

本、イメージは高嶋清俊 氏による展示“ 併置することと連続すること “に関して、作家より主題に関する問題提起を受けて、検証のために制作された作品の一部です。

 

併置の問題についての比較事例として条件と構成を変えた検証作品
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1 窓と窓の間の柱
(作為的にブラインドを空けて背景をつくってます)
2 柱に取り付けられた折り鶴
(某学校に取り付けられていたものです。それが鉄塔の代役です)
3 柱を逆方向から近接撮影
(光量の関係で左の黒い陰の中に実際には黒い折り鶴がありますが視認はできません)

このケースの場合(生駒山と鉄塔の事例と異なる部分)
A 風景の中に折り鶴が視認できる(生駒山のカットでは鉄塔が視認できないが、本件では視認できる)
B 空間的な質の違い/室内であり極めて近接している。移動、距離、スケールなどの差異
C 3つのカットであること
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以上の事例は、生駒と鉄塔の併置の関係と対称性にあるでしょうか?
これをみると恐らく併置による何らかの関係づけと、視認性(折り鶴と見えない鉄塔)とは無関係に思えます。またフレームの外にある外部要素(例えば「生駒山には赤い鉄塔がある」「某学校の学生が勝手に取り付けた折り鶴がある時そこにあった」という(仮想の)事実)が重要な役割を担っているとはにわかには思えませんでした。私の事例で1のカットにおいてブラインドを少し空けたのは外部のビルを見せることで景観的な付帯情報を与えました。それは「神崎川に架かる十八条大橋から東方の生駒山を望む」のと同じような地理的な情報における物語性が参照者における併置/関連づけにおいての役割を確認するためでしたが、どうもそういうことではないように感じました。

では「なぜ関係づけられてしまうのか?」あるいは「何が関係たらしめているのか?」ということが気になってきます。
そもそも生駒山のカットと鉄塔のカットは個々において無関係なのかもしれません。

〈見る〉ことと〈知る〉ことは同質ではないことは「盲者の記憶」(ジャック・デリダ)においても明らかなことですが、見ることが神話となることで、見ている(=知っている)と信じるような一般化された盲目状態にあることと、『併置されること/参照する』過程(それは撮影行為と分離されているのでしょうか?)に一定の関わりがあるということは想像できます。

『見えないけれども山の上に鉄塔があるという「(仮想の)事実」』
『見えないけれども黒い陰の中に黒い折り鶴があるという「(仮想の)事実」』

それらを「信じること」とはどのような状態でしょうか。そこには「見いだすものがない」ことに対する「不安」のようなのようなものがあるのかも知れません。

思えばフレームの起源は教会の壁画や祭壇画のための縁取りであり神聖なものへの差異化・中心化であったわけですが、同時にいえば「美」がイデアや意味を与えるべき主体から切り離され、交換される対象となっていったのも絵画史においてでありました。絵画と写真との関わりにあってまたはフレームの内と外の関係において、失われたもの(主体)をフレームの内に見いだすような視線のうちに本来無関係なカットを関係付ける(信じる)ような仕組みが生まれたと仮定できないでしょうか。

 

追記

「盲者の記憶」においてデリダは「たとえファンタン=ラトゥールが素描している最中の自分を素描していることが確かでも、作品だけを観察すること によっては、彼が自分を素描している自分を示しているのか、それとも他のものを----あるいはさらに、他者としての自分自身を----素描して いる自分を示しているのかはけっして知られないだろう。」と書いています。絵筆を握る主体の不在(視線の宛先が決定不可能)は「その絵を決して見 ることはできない意味で見る側を「盲目」へと変移させる。そこで絵画を成立させる消失点としての「信」の問題がでてくるように思います。

 

有馬 徹

 


 

 

"併置することと連続すること"   高嶋 清俊

於:ミミヤマミシン  2013年5/29(水)ー6/2(日)

『左の写真のキャプションは「神崎川に架かる十八条大橋から東方の生駒山を望む」で、右は「生駒山頂の鉄塔の部分」となります。神崎川から眺めていた生駒へ行って右の写真をとりました。と言えば信じるでしょうか。
本当に行って撮ったのですが。そのことが重要なことなのかどうか。
… 』   (“併置することと連続すること“ 「展示概要」より)

 

 

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